歴史
1.剛柔流空手道の歴史
剛柔流空手道は、空手の流派のひとつで沖縄三大流派(剛柔流、上地流、小林流)の一つ。松涛館流、糸東流、和道流と並び空手の四大流派の一つとされる。
剛柔流空手は、1942年に宮城長順先生の高弟・新里仁安により命名、のちに宮城長順先生がこれを追認したことから流派名として定着した。この流派は開祖の宮城長順先生(写真右側)が東恩納寛量先生(写真左側)から学んだ那覇手と、独自の研究を新たに加えたものである。 従来、東恩納寛量先生が中国から持ち帰った拳法の影響が大きいと言われている。現在の剛柔流空手道は、宮城長順先生は何人かの弟子に伝承されている。
2.上殿幹雄先生の教訓
上殿幹雄先生は1997年8月9日享年63歳まで剛柔流空手道に邁進されて、生前には沖縄に渡り剛柔流空手道に関する研究を続け、宮城長順先生の弟子である与儀実栄先生(写真左側)、古堅春震先生(写真右側)、新垣修一先生との交流も深く関わり剛柔流空手道の研究をされていました。現在は剛柔流空手道に関する研究資料、残された書物などは門下生達に受け継がれています。
上殿幹雄先生は「常に剛柔流空手道と対峙する」を信念とされ、門下生である我々は、その剛柔流空手道への思いを胸に刻み、常に稽古に励み続け、理解と修得していくことが使命であると考えています。
上殿幹雄先生の教えとして、空手道に於ても競技化が進み、スポーツ化され、格闘技として世界に伝播普及されておりますが、空手道にあっては、その原点は「型」にこそあり、自由組手は型の応用の一端となります。ともすれば粗暴に偏し易い傾向があります。段位(とチャンピオンの違い)のもつ意味は茲に存在の価値があります。
与儀実栄先生から届いたお葉書(左側)、古堅春震先生自筆の武備誌(右側)で大変貴重な資料。
上殿先生、田村先生、安樂先生らが交野市空手道連盟の祝賀式に出席。
星田西体育館で行われた演武会(上殿師範、安樂師範)
3.今なぜ「武道」なのか?
「武道」という言葉の響きの中に、我々日本人は、懐かしさ、頼もしさ、厳しさの中にあるあたたかさを感じます。
それは武道がそれぞれの時代を経て、積み重ねられてきた日本人の心の伝統だからです。歴史を顧みますとその時代の中で、真摯に己をみつめて行動した武道人の姿が浮かんできます。その時代に対応しながらも行動出来た人達です。
今、何故、「武道」なのでしょうか?
武道を通じて己を見つめる事は、とりもなおさず、相手に対する思いやり、尊敬の心、そして責任感、勇気、自分を律する心を育てます。今の日本人が国際性を発揮する時、一番欠けている所だと思います。
日本人が真の国際人になり得るに不可欠な、自国の文化を理解するという事にも通じます。そして己をみつめるという事はとりもなおさず個の確立です。将に現代に必要な事です。
「武道」は、古くて、いつも新しい日本人の心です。 今こそ「武道」です。
4.剛柔流空手道の「型」について
剛柔流空手道の生まれた沖縄。育った本土に数知れぬ型が存在します。その中で剛柔流空手道には僅かの「十二」の型しか伝承されておりません。これは何故でしょうか?
技というものは、行なう者の体格、力、感性、年齢等が異なれば、全て違いとなって表われます。相手の攻防によっても、つまり何千何百となる技が出来てきます。それを一つ一つ学ぶのは不可能な事です。
宮城長順先生は「人間の体の基本・動きに、徹底的にこだわられたように思います。故に剛柔流の型には華麗な動きも、大きな技もありません。ただただ基本・腰の締め・ゆるがない中心の保持、脇の締め、速やかなる重心、腰の回転、移動、尚且つ攻撃に対する備えの体制づくり又型は行なう者が何百何千となく技の創り出せる「応用の出来る型のみ」です。だから数は非常に少なく、限定された理由の「一つ」だと思われます。
剛柔流の型一つ一つにこだわりをもってみつめてゆきますと、さらにもう1つのことが解って来ます。三戦のもつある一面を解釈して行く上で、それぞれが非常に重要だと気付かされます。そして最後にたどり着く剛柔流最後の型と言われます「壱佰零八手(スーパーリンペイ)」を行う上で必要な道のりであった・・・と始めてわかります。それがとりもなおさず、三戦を行い解釈するのに絶対必要な事であったとも認識をあらたに致します。そこで三戦の何たるかが、ぼんやり遠くに見えて来て又、三戦に還り学ぶ事を始めます。剛柔流空手道を学ぶ者は、一生その繰り返しに違いありません。
三戦に始まり、三戦に還り、また始まります。これが「剛柔流の空手道」です。
基本型:三戦(サンチン)
閉手型:転掌(テンション)
鍛錬型:撃砕第一(ゲキサイダイイチ)
撃砕第二(ゲキサイダイニ)
開手型:砕破(サイファ)、制引鎮(セイユンチン)
四向鎮(シソウチン)、三十六手(サンセイル)
十三手(セイサン)、十八手(セイパイ)
久留頓破(クルルンファ)、壱佰零八手(スーパーリンペイ)
●撃砕第一(ゲキサイダイイチ)
●撃砕第二(ゲキサイダイニ)
剛柔流空手道の多くの道場で一番初めに習う型、1940年に宮城長順先生が創作。のちに撃砕第一を一部変更して初心者・他流派出身者向けに手直ししたものが、普及形二(現代ではローマ数字で普及形Ⅱと表記されることが多い)として1941年に当時の沖縄県で採用された。突きや受け、転身(体さばき)、立ち方などの基本的な動作がバランスよく採り入れられ、かつ破綻なく紡がれており、空手を行う上での基礎体力を養うのに適している。ちなみに撃砕第一は基本的に手を正拳に握って使うが、第二では開手を使用し、動作も若干高度になっている。
●三戦(サンチン)
剛柔流の「型」の中で「三戦」は基本である。尚且つ「三戦」に始まって「三戦」に還る、とも言われ、「立禅」とも呼び称されております。しかし、何故三戦に始まって三戦に還るのかの具体的な「問い」はなされる事が少ない。
易の思想に、道は「一」を生じ、「一」は「二」を生じ、「ニ」は「三」を生じ「三」は万物を生ずと万物は「陰」を負い、「陽」を抱え「沖気」をもって和をなす。天下の物は「有」より生じ、「有」は「無」より生ず。これは物質の最小の構成単位であり生命を担い精神を活動させるものであります。これがそれぞれの思想に奥行きを与えるとともに豊かにし、同時に神秘性を加えるものになっていったと想像されます。日本の武道の中に現われる三位一体の考えでもあります。
三戦は呼吸し、歩く、何の変てつもない動作の繰り返しであるかのように、視る者の目には映ります。しかし人間の誕生に始まる呼吸、歩みなど自然な動作をふまえ、見逃しがちな動きの基本がいわゆる「始め」をも表現されています。又最大限に省略された基本的な動作構成で成り立つ「三戦」は行う者にとってはごまかしのきかない困難さと、不可解さとがあります。その不可解さとは、最小さの表現であるが故に、そこに係わる人間の感性、能力に応じて生ずるものであります。その係わる人の技量、能力、思考の度合により、深くもなりつまらなくように出来ております。これは剛柔の型全てに通ずる特性でありますが、行う人がその真価を決めてしまうのです。それは実に単純であり、且つ奥深いからなのです。最大の表現は、技とか思考に、深みも広まり、奥行きも与えないものです。限り無く応用を生む考えが、「三戦」なのです。
「三戦」は剛柔の心です。心は言葉にも文字にも表現することは出来ません。「不立文字」そのものに思います。
●転掌(テンション)
突きが繰り返し使われる「三戦」に対し、殆どが受けの動作で構成されている珍しい型。
「三戦」、「転掌」は共に単純な動作の型であるが剛柔流の基本思想は辿っていけばここに行き着くと言っても過言ではなく、高段者でも常にここへ立ち返って確認するほどである。六機手→転換手→転掌と名が変わる。宮城長順先生考案型。
●砕破(サイファ)
全日本空手道連盟第一指定形、猿臂(肘)を多用する比較的短い型。東恩流にはない型であり伝系は不明。
●制引鎮(セイユンチン)
かつては「制引戦」と書いてこう読ませたが、戦前・戦時中に、当時の世相を反映して武勇・軍事色の強い表記に改変され、現在に至っている。旧い方の名前が示すとおり、襟や手首などをつかんで引きつけようとする相手を想定した技が多く含まれる。柔の要素が強く、蹴り技が全く存在しないのも大きな特徴である。この型も東恩流にはない型であり、宮城長順先生が誰から習ったかは不明である。那覇手の流れを汲む糸東流でも稽古されており、同流派の「制引鎮」が全日本空手道連盟第一指定形とされている。
👉「制引鎮」(video)
●四向鎮(シソウチン)
「制引」と同様の事情により「四向戦」と言う表記から、このような表記となった。動作の大きな受け技が目を引くが、これは恐らく長物との戦闘を想定しての事であろうと思われる。
「四」には天地万物が四元素から成るという思想があり、又四方拝にも表れる。中国古代に於ける四神、東の青龍、西の白虎、南の鳳凰、北の玄武といった方角、色彩、季節等森羅万象すべての広大さをも表現している。型としての特徴は、前記しました神秘的な思想をふまえた、他の型には見られないいわゆる、ゆるやかな気の流れ、三戦のある一面を表現・応用し、次なる問いかけを波濤のようにたたみかけ、「武備志」の「法剛柔呑吐」という剛柔流の考えをも意識できる型。「四向鎮」の終末に於ける挙動に運足がありますが、なぜかような足の運びがあるのか、それは次なる動作、その連動、自在なる構え、終りが常に始りであるという心構えを意味します。中国のある地方に行って夜空を眺めると、星空は手に届くような天空は“円”そのものだそうです。又果てしない荒野、地平線は“四角”に見えるようです。「四向鎮」の夢は無限に広がる。
●三十六手(サンセイル)
宮城長順先生の同門である許田重発先生だけが、この型を東恩納から習ったとされる。宮城長順は兵役に就いていたため、「三十六手」を習うことができなかった。剛柔流の「三十六手」の伝系は宮城長順先生が息子の宮城敬を許田の下で手順だけを習わせた型に手を加えたものであると考えられる。
よく知られる中国古典の「水滸伝」に三十六天星の英雄豪傑が登場します。道教に天帝思想、星信仰があり、月が全天を一周する時に、通過する起動付近の二十八の星座を表わした二十八宿に加え、武道を志す者が、心胆を練るに際し最も陥ちいり易い三十六の心の“病い”を教えたもの。尚且つ動きの自然さ、無為なる所作を伝えており、三戦の持つ、三位一体を表わす動きの型であり、最後の型、久留頓破への道しるべの型でもあるように考えます。
●十三手(セイサン)
全日本空手道連盟第二指定形。「十八手」を柔の型とするならば、こちらは剛の型の最右翼と言ってよい、非常に動作の激しい型であり、突きを得意とする人が好んで練習する傾向のある型である。
●十八手(セイパイ)
全日本空手道連盟第一指定形。全ての型の中で最も柔の要素が強く、発祥が南部の黄河流域ではなく、北方や西方の砂漠地帯であるとする説もあり、実際剛柔流に限らず空手の型としてはかなり異彩を放っている。大抵どんな武術もその地域の気候や風土に合わせて変化、改良されてゆくものであるが、この「十八手」は大陸から伝わったものが殆ど手を加えられずに原型を留めていると言われる。この型も東恩流にはなく伝系は不明である。
「八」は「∞」無限の世界を表象します。無限を表わす言葉に永久の「永」がありますが、この「永」は書法伝授の一方法で「永」の字の中に、基本点画が含まれている。と言われています。人間は、天の力の作用によって支配されているという考えが、古来中国から伝わっております。天の働きが陰陽二つの働きとなって現れ、さらに陰陽の働きの中から、天地万物のあらゆる現象が八つの方向となって現われる。と伝えられるものです。闘争において敵と対峙する時、一足の間合いを取りますが、いかなる場合においても、八人の敵と向い合うのが最大と言われます。万人の敵が襲い来ようと、それは八人の敵と同じこととされ、八人の敵も剣の届く所“間”は只一人と対峙すると同じとされております。演武戦も八方以上に連関する動きは無いとされ、すべて八方は、円、全周を表現すると共に動作の方向を決定させるものだとも思われます。剛柔の型の方向性にふくむ教えには、以上の意味あいもあると推せられます。十八には他の型には見られぬ独特の構えがあります。剛柔の型にはそれぞれ、その型にしかない特徴を持たされていますが、特に「十八手」にはそれが著しく思われます。
●久留頓破(クルルンファ)
全日本空手道連盟第二指定形。この型も東恩流にはなく伝系は不明であるが、公開したのは摩文仁賢和先生である。
●壱佰零八手(スーパーリンペイ)
剛柔流空手道の最高峰とされる形。本来は上・中・下の三つの形から構成されると言われ、現在の同形はそのうちの一つと言われている。 別名ペッチューリンとも言われるが類似の別形も存在する(東恩流のペッチューリン)。許田重発先生によれば、東恩納先生は「ペッチューリン」を教えたのであって、スーパーリンペイではなかったと言う。それゆえ、剛柔流のスーパーリンペイの伝系は不明である。